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奈良県・高松塚古墳の極彩色壁画にまつわる逸話<無料記事>

2012 - 01/31 [Tue] - 15:36

高松塚古墳 壁画

 

その名は、「世紀の大発見」として、まさに一夜にして日本中に広がった…
奈良県明日香村にある高松塚古墳から、極彩色の壁画が発見されたのは、今から40年前の昭和47年(1972年)3月21日。奈良県橿原考古学研究所の所長であった末永雅雄・関西大学名誉教授の指導のもと、同大学の網干善教・助教授と考古学研究室の学生が発掘調査を行い、日本で初めてとなる極彩色の壁画を検出した。
その後の政府の対応は迅速で、翌73年に高松塚古墳は特別史跡に認定され、74年に極彩色壁画は国宝となる。

 

高松塚5

 

また同時に、壁画の保存については内外の専門家からさまざまな意見が出され、石室から壁画を剥がして別途保存する方法を含めて、あらゆる案が検討されたという。だが最終的に、石室は解体せず壁画は現地で保存することになる。そこで文化庁は1974年から石室南側の前室部分に空調設備を備えた保存施設の建設を進め、1976年3月に完成。壁画の保存修理工事は同年の9月から第1次、第2次、第3次に分けて実施され、1985年をもってすべてが終了。この間、1980年にカビの大量発生をみるが、この時は薬品等を用いた除去策が功を奏した。

 

高松塚4

 

事態が風雲急を告げたのは21世紀を迎えてから。
2004年6月、高松塚は再び「大事件」の舞台となる。今度は朝日新聞が壁画の劣化を大々的に報じたのだ。描線が消えかかった白虎図や黒カビなどの写真が明るみに出ると、一般国民の関心は大きく明日香村に注がれた。やがて、外部の専門家の力を借りずにカビ退治の失敗を重ねたこと、壁面の損傷を隠した不祥事、地震の地割れで水や虫類が入ったことなどが判明。壁画は複合劣化とされたが、政府の管理体制に対する国民の疑念が消えることはなかった。

 

高松塚6

 

その後、改めて壁画の劣化防止策や保存方法について種々の検討が行われ、最終的には、壁画の描かれている石室をいったん解体・移動して修復し、完了後に元に戻すという計画に落ち着いた。石室の解体修理は2006年10月に開始され、翌年3月には国営飛鳥歴史公園内に修理施設が完成。石室はいったん解体・搬出した後、この修理施設へ移され、10年間かけて壁画の保存修理が行われるという。また空調設備を備えた保存施設は既に撤去され、高松塚古墳は2009年10月から再びその姿をみることができるようになっている。
ちなみにこの古墳は、二段式の円墳で、694年~710年の間の築造と確定されている。ただし被葬者は今も未特定で、天武天皇の皇子説、臣下説、朝鮮半島系王族説の3つが有力視されている。

 

高松塚7

 

さて… その極彩色の壁画が発見当時に近い状態で見られるレプリカが、思いも寄らない場所にあることをご存知だろうか。
その場所とは、大阪府吹田市にある関西大学の千里山キャンパスである。高松塚古墳の実質的な発掘者である関西大学では、2004年の事件を機に、発掘当時の感動を後世に伝えるべく、精巧なレプリカを博物館前に作ったという。館外にあるので誰も気軽に見学できるうえに無料だ。修復された本物が良いのか、リアルに近いレプリカが良いのかは分からない… しかし、この試みは拍手に値するものだと筆者は思う。なお筆者は関大OBではない。PTAではあったけど(笑)。でなければ、こんな話は今も知らないままに違いない…

 

高松塚8

 

関西大学
〒564-8680 大阪府吹田市山手町3−3−35
電話:06-6368-1121

 

 

 
 
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伝飛鳥板蓋宮跡/蘇我氏を知れば、明日香村は10倍面白い <無料記事>

2012 - 01/30 [Mon] - 10:19

明日香村2

 

現在も残る「大化の改新」の現場

奈良県明日香村は、桜と南北朝で知られる吉野山にほど近い長閑な山村で、石舞台古墳や高松塚古墳、あるいは日本最古の寺院と呼ばれる飛鳥寺などの史蹟があることで知られる観光地でもある。だが、この村が日本人なら誰もが耳にしたことのある出来事の舞台であったことを知る人は意外にも少ない。中学生の頃に「虫五匹」の語呂で覚えた「大化の改新」は、この明日香を地盤に親子3代にわたって繁栄を極め、大和の国を実効支配してきた蘇我氏を打倒することから始まった…

 

石舞台

 

蘇我馬子は聖徳太子の盟友? 
蘇我馬子が絶対的な権力者であったことを顕著に示す証拠がこの写真。そう、かの有名な石舞台古墳である。確定ではないものの、様々な状況証拠から、おそらく曽我馬子の墓であろうと見識者たちは見ているようだ。 さて、蘇我氏は飛鳥時代の豪族で、馬子は父の蘇我稲目(そがのいなめ)の後を継いで敏達(びだつ)天皇の時に大臣となる。以降、推古天皇に至る4代の帝の側近として、実に54年もの間政治の中枢に立ち、蘇我氏の全盛時代を築いていく。 

 

馬子が蘇我氏の跡目となった頃の大和朝廷は、物部氏や大友氏とともに豪族が協力して天皇を支える仕組みであった。しかし仏教の信仰を巡って反対派の物部氏と激しく対立し、やがて戦となる。その背景には、仏教伝来時から続く蘇我家と物部家の深い因縁があった。
この戦で活躍するのが聖徳太子こと厩戸皇子である。14歳で参戦した厩戸皇子は、蘇我氏が劣勢になっていた時に白木で四天王の像を彫り、それを掲げて先頭に立って戦ったという。それによって蘇我軍は士気を回復し、物部氏の打倒に成功する。聖徳太子はこれに感謝して、後に大阪に四天王寺を建立。それが現存する我が国最古のお寺とされている。 

 

西暦587年。この戦争の結果を受けて、崇峻天皇が即位する。しかし時の権力者である蘇我馬子とそりが合わず、わずか5年で闇に葬られる。その後は本来ならば厩戸皇子が天皇に即位する番であったが、皇子はそれを断り、代わりに伯母の額田部皇女を天皇に立てて、自らは摂政となった。 
蘇我馬子は息女の刀自古郎女を皇子に嫁がせ、義理の父としてその関係を深めていく。そして推古天皇を頂点に、厩戸皇子を摂政とし、馬子を大臣とするトロイカ体制が誕生。その安定政権下で、十七条憲法・冠位十二階が定められ、日本の律令政治の基盤整備が大きく進んだ。真意は違えど、両者にとってこの関係は、大きな意味を持っていたようだ。皇子は蘇我氏の武力を背景に反対派を封じ、蘇我氏は豪族から、皇室縁者というワンランク上の家柄を得たのである。

 

蘇我氏一門による権力抗争
それからおよそ40年… 馬子によって築かれた蘇我氏の絶対権力は、既に子供の蝦夷(えみし)に系譜されており、世の中には再び暗雲が立ち込めつつあった。安定政権の担い手であった厩戸皇子は49歳の若さで亡くなり、推古天皇はその後馬子の死も看取って、75才で崩御する。だが肝心の後継者が決まっていなかった。 ただ、推古天皇は自らの候補者を2人に絞っていた。1人は聖徳太子の息子山背大兄王(やましろのおおえのおう)、もう1人は敏達天皇の孫にあたる田村皇子である。当然両者には蘇我一族の後ろ盾があったが、次期天皇の座を巡って、ついに後見人同士の争いが始まる。

 

勝ったのは宗家の蘇我蝦夷。叔父である蘇我摩理勢を攻撃して殺害したのち、629年に田村皇子を舒明天皇(じょめいてんのう)として即位させることに成功する。ただ舒明天皇は蘇我氏の血縁者ではなかったので、蘇我蝦夷は宝皇女(たからのみこ)を皇后として送り込み、盤石の態勢を整えた。しかし皮肉にも、この2 人から、大化の改新の主人公である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、その後に起こる壬申の乱の勝利者、大海人皇子(おおあまのおうじ)が生まれるのだ。

 

明日香村4

 

打倒、蘇我氏の機運とヒーローの登場
641年の舒明天皇の死後、次こそは自分の番と期待していた山背大兄王に、またもや蘇我氏による妨害が入る。今度の黒幕は蝦夷の息子、蘇我入鹿(そがのいるか)である。その結果、舒明天皇の次の天皇には皇后である宝皇女が選ばれ、皇極天皇として即位してしまう。これにより蘇我宗家と、厩戸皇子の息子である山背大兄王との確執は決定的となるが、その2年後、蘇我入鹿は山背大兄王の邸宅を急襲し、残忍にも山背大兄王を始めとする一族を皆殺しにしてしまうのだ。
この事件を機に、蘇我氏の勢力は更に強大なものとなっていくが、それと比例するように人心の離脱は進んだ。

 

打倒・蘇我入鹿の旗頭となった男の名前は、中臣鎌足。大化の改新以降、藤原姓となり、平安時代に摂関政治を行う一大氏族となった元祖である。極楽浄土をこの世に描き、世界文化遺産に登録されている平泉を築いた藤原氏も、ルーツを辿れば、この鎌足に行き着くという。
中臣鎌足は、聖徳太子が夢見た理想の国家を目指すため、蘇我氏打倒に向けてその中心となるべき皇族を探し始める。そして中大兄皇子と運命の出会いを果たすのだ。ちなみに中大兄皇子の本名は葛城皇子。もともと、中大兄皇子とは天皇の次男や三男を意味する言葉であったらしいが、大化の改新以降、葛城皇子の代名詞として定着してしまったようだ。

 

645年6月12日、明日香村に残る「伝飛鳥板蓋宮跡」にあった宮中で、三韓(新羅・高句麗・百済)の使者が天皇に謁見する行事の最中に、中大兄皇子自らが蘇我入鹿を急襲し、その命を奪う。 このクーデターが大化の改新だと思っている人も多いようだが、それ自体は「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ぶのが的確だ。
大化の改新とは、この乙巳の変をきっかけに蘇我氏が滅び、公地公民制や、租・庸・調による統一的税制の実施、また氏姓制度による皇族・豪族の支配を否定して、中央集権国家の実現へと向かった改革全体を表す表現である。

 

明日香村5

 

国家改革の潮流は、大化の改新に留まらず、この後明日香村から舞台を関ヶ原や大津に移して、古代史上最大の内戦と呼ばれる壬申の乱へと続いていくが、明日香村には、大化の改新までの軌跡を知る史跡や遺構が数多く残されている。

 

伝飛鳥板蓋宮跡
〒634-0111 奈良県高市郡明日香村岡
現地電話なし。まっぷるコード: 29000330

 

 

 
 
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ルーツが分かると、源平合戦は10倍面白くなる<無料記事>

2012 - 01/24 [Tue] - 08:38

御所 清涼殿

 

元を辿れば、どちらも皇族の血筋
源氏は清和天皇の孫、平家は桓武天皇の子孫が、臣籍降下で姓を受け、野に下って武将となった。臣籍降下(しんせきこうか)とは、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。 
当初は共に公家の警護役を司っていたが、保元元年(1156年)の鳥羽上皇の崩御を機に、後白河天皇と崇徳上皇の皇位をめぐる対立と、藤原一門の権力争いから生じる「保元の乱」に巻き込まれる。この戦で、源義朝と平清盛は後白河天皇側に加担し、崇徳上皇を打ち破った。
7月11日未明、後白河天皇の命を受けた源義朝と平清盛は、崇徳上皇の命を受けて事を起こそうしていた、源義朝の父・為義と弟・為朝と平忠正らの集結場所を急襲し、これを制した。

 

対立のきっかけは、平治の乱
それから3年… 保元の乱で勝利した後白河天皇は、まもなく皇位を二条天皇に譲り、上皇となって院政を始めた。義朝は保元の乱の時に、父・為義、弟・為朝を敵に回して戦い、二人を殺害したにもかかわらず、一緒に戦った平清盛の出世に比べて、冷たく扱われていることに不満を抱き、やがて清盛失墜を謀るようになる。

 

平治元年(1159)12月4日、清盛が熊野参りで京を離れた隙を狙って、義朝は謀反を起こした。まず後白河上皇と二条天皇を幽閉し、側近で清盛派の藤原信西を殺害する。これが平治の乱である。
しかし、その一報を聞いた清盛は急いで京に戻り、天皇と上皇を救い出した後、一気に義朝軍を打ち破る。鎌倉を目指して落ち延びようとした義朝と長男・義平は捕らえられて斬首、13歳の頼朝は伊豆の蛭が小島に流される。この戦を境に、平家は源氏を押さえ大躍進を遂げる。

 

鞍馬寺

 

ここで興味深いのは、最後に檀ノ浦で平家に印籠を渡すことになる源義経の生い立ちだ。父、義朝が刃に倒れたのは義経がまだ1歳の時。母の常磐御前は敵将の平清盛に身を任せるのと引き替えに子供たちの命を永らえ、義経は共に暮らすうちに平清盛を本当の父のように慕ったともいわれる。
しかし常盤御前が清盛の元を離れることになった七歳の時に、義経もまた鞍馬寺に出され、覚日阿闍梨の弟子となる。義経は昼間は東光坊で学業に励み、夜が更けると僧正ガ谷で天狗に兵法と剣術を習った。伝説の八艘飛びは、この時期の鍛錬の賜物だったのだろうか。

 

源平2

 

6年に及ぶ源平合戦、治承・寿永の乱
その後十年もたたないうちに,平家一門の繁栄は「公卿十六人・殿上人三十余人」という公家独占状態に至る。その結果、排除された旧勢力からの反感を受け、後白河法皇の皇子以仁王と源頼政が、治承4年(1180年)に平氏打倒の兵を挙げ、全国的な争乱が始まった。歴史学上の源平の戦いとは、ここから先を指すようだ。

 

この動乱は約五年間の長きに及んだ。頼政の挙兵は平家に敗れ、宇治の平等院で自害、失敗に終わる。また、同じく以仁王の綸旨を得て、源頼朝が嫁の実家である北条一族の力を借りて挙兵する石橋山の戦いでも、平家から派遣された鎮圧軍の前に敗戦。しかし残党狩りの時に、鎮圧軍の梶原景時が頼朝にお目こぼしを計らい、無事安房に脱出する。

 

平家圧倒的有利の戦況が変わったのは富士川の戦いからである。
5万の平維盛軍が源頼朝追討のため、京から鎌倉へ進撃するが、頼朝はこれに応じて関東の反平家20万騎を従えて西進。さらに甲斐の武田軍と合流し、富士川を挟んで対陣した。 
10月19日の夜、甲斐源氏の武田信義が、密かに対岸の平家軍へ奇襲をかけるべく富士川を渡ろうとした時、水鳥がいっせいに飛び立ち、その羽音に驚いた平家軍は、なんと一戦も交えないまま京都へ退散してしまったのである。
またこの戦の途中で頼朝軍に参戦してくるのが、後々の戦いで大活躍する源義経であり、その直後に、清盛はマラリアで命を落としてしまう。まさに主人公の新旧交代、ここでも義経と清盛の運命が交錯する。

 

以降、金沢の「倶利伽羅峠の戦い」、 神戸・福原における「一ノ谷の戦い」、そして香川県にある「屋島の戦い」と、立て続けに源氏軍は平家を打ち破り続け、寿永4年3月24日(1185年4月25日)に、関門海峡の檀ノ浦で、遂にその戦いに終止符を打つ。

 

源頼朝

 

源氏と征夷大将軍

建久3年(1192年)、源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、初の武家政権となる鎌倉幕府が誕生、長きにわたり公家が政を司ってきた平安時代は終焉を迎えた。
なお、北条氏、織田信長は平家、足利氏、徳川家康は源氏の血をそれぞれ引くと言われている。また本来の征夷大将軍とは、「征夷」つまり北海道を制圧する大将のことで、どこかの国の「将軍様」のように、国内全土に権威を振るうことができる役職ではなかったようだ。文献によれば、それは頼朝が京の都にいる天皇からチャチャの入らない鎌倉に居座るための作戦だったとか。源氏の血を引くものにしか征夷大将軍にはなれないというのは、どうやら足利義満が考えだした真っ赤なウソであるらしい(笑)。

 

 
 
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稲垣朝則
車中泊専門雑誌カーネルの巻頭特集「車中泊で旅する」を連載しており、その取材で年中日本全国を旅している。
既に日本列島を5往復以上…
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