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伝飛鳥板蓋宮跡/蘇我氏を知れば、明日香村は10倍面白い <無料記事>

2012 - 01/30 [Mon] - 10:19

明日香村2

 

現在も残る「大化の改新」の現場

奈良県明日香村は、桜と南北朝で知られる吉野山にほど近い長閑な山村で、石舞台古墳や高松塚古墳、あるいは日本最古の寺院と呼ばれる飛鳥寺などの史蹟があることで知られる観光地でもある。だが、この村が日本人なら誰もが耳にしたことのある出来事の舞台であったことを知る人は意外にも少ない。中学生の頃に「虫五匹」の語呂で覚えた「大化の改新」は、この明日香を地盤に親子3代にわたって繁栄を極め、大和の国を実効支配してきた蘇我氏を打倒することから始まった…

 

石舞台

 

蘇我馬子は聖徳太子の盟友? 
蘇我馬子が絶対的な権力者であったことを顕著に示す証拠がこの写真。そう、かの有名な石舞台古墳である。確定ではないものの、様々な状況証拠から、おそらく曽我馬子の墓であろうと見識者たちは見ているようだ。 さて、蘇我氏は飛鳥時代の豪族で、馬子は父の蘇我稲目(そがのいなめ)の後を継いで敏達(びだつ)天皇の時に大臣となる。以降、推古天皇に至る4代の帝の側近として、実に54年もの間政治の中枢に立ち、蘇我氏の全盛時代を築いていく。 

 

馬子が蘇我氏の跡目となった頃の大和朝廷は、物部氏や大友氏とともに豪族が協力して天皇を支える仕組みであった。しかし仏教の信仰を巡って反対派の物部氏と激しく対立し、やがて戦となる。その背景には、仏教伝来時から続く蘇我家と物部家の深い因縁があった。
この戦で活躍するのが聖徳太子こと厩戸皇子である。14歳で参戦した厩戸皇子は、蘇我氏が劣勢になっていた時に白木で四天王の像を彫り、それを掲げて先頭に立って戦ったという。それによって蘇我軍は士気を回復し、物部氏の打倒に成功する。聖徳太子はこれに感謝して、後に大阪に四天王寺を建立。それが現存する我が国最古のお寺とされている。 

 

西暦587年。この戦争の結果を受けて、崇峻天皇が即位する。しかし時の権力者である蘇我馬子とそりが合わず、わずか5年で闇に葬られる。その後は本来ならば厩戸皇子が天皇に即位する番であったが、皇子はそれを断り、代わりに伯母の額田部皇女を天皇に立てて、自らは摂政となった。 
蘇我馬子は息女の刀自古郎女を皇子に嫁がせ、義理の父としてその関係を深めていく。そして推古天皇を頂点に、厩戸皇子を摂政とし、馬子を大臣とするトロイカ体制が誕生。その安定政権下で、十七条憲法・冠位十二階が定められ、日本の律令政治の基盤整備が大きく進んだ。真意は違えど、両者にとってこの関係は、大きな意味を持っていたようだ。皇子は蘇我氏の武力を背景に反対派を封じ、蘇我氏は豪族から、皇室縁者というワンランク上の家柄を得たのである。

 

蘇我氏一門による権力抗争
それからおよそ40年… 馬子によって築かれた蘇我氏の絶対権力は、既に子供の蝦夷(えみし)に系譜されており、世の中には再び暗雲が立ち込めつつあった。安定政権の担い手であった厩戸皇子は49歳の若さで亡くなり、推古天皇はその後馬子の死も看取って、75才で崩御する。だが肝心の後継者が決まっていなかった。 ただ、推古天皇は自らの候補者を2人に絞っていた。1人は聖徳太子の息子山背大兄王(やましろのおおえのおう)、もう1人は敏達天皇の孫にあたる田村皇子である。当然両者には蘇我一族の後ろ盾があったが、次期天皇の座を巡って、ついに後見人同士の争いが始まる。

 

勝ったのは宗家の蘇我蝦夷。叔父である蘇我摩理勢を攻撃して殺害したのち、629年に田村皇子を舒明天皇(じょめいてんのう)として即位させることに成功する。ただ舒明天皇は蘇我氏の血縁者ではなかったので、蘇我蝦夷は宝皇女(たからのみこ)を皇后として送り込み、盤石の態勢を整えた。しかし皮肉にも、この2 人から、大化の改新の主人公である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、その後に起こる壬申の乱の勝利者、大海人皇子(おおあまのおうじ)が生まれるのだ。

 

明日香村4

 

打倒、蘇我氏の機運とヒーローの登場
641年の舒明天皇の死後、次こそは自分の番と期待していた山背大兄王に、またもや蘇我氏による妨害が入る。今度の黒幕は蝦夷の息子、蘇我入鹿(そがのいるか)である。その結果、舒明天皇の次の天皇には皇后である宝皇女が選ばれ、皇極天皇として即位してしまう。これにより蘇我宗家と、厩戸皇子の息子である山背大兄王との確執は決定的となるが、その2年後、蘇我入鹿は山背大兄王の邸宅を急襲し、残忍にも山背大兄王を始めとする一族を皆殺しにしてしまうのだ。
この事件を機に、蘇我氏の勢力は更に強大なものとなっていくが、それと比例するように人心の離脱は進んだ。

 

打倒・蘇我入鹿の旗頭となった男の名前は、中臣鎌足。大化の改新以降、藤原姓となり、平安時代に摂関政治を行う一大氏族となった元祖である。極楽浄土をこの世に描き、世界文化遺産に登録されている平泉を築いた藤原氏も、ルーツを辿れば、この鎌足に行き着くという。
中臣鎌足は、聖徳太子が夢見た理想の国家を目指すため、蘇我氏打倒に向けてその中心となるべき皇族を探し始める。そして中大兄皇子と運命の出会いを果たすのだ。ちなみに中大兄皇子の本名は葛城皇子。もともと、中大兄皇子とは天皇の次男や三男を意味する言葉であったらしいが、大化の改新以降、葛城皇子の代名詞として定着してしまったようだ。

 

645年6月12日、明日香村に残る「伝飛鳥板蓋宮跡」にあった宮中で、三韓(新羅・高句麗・百済)の使者が天皇に謁見する行事の最中に、中大兄皇子自らが蘇我入鹿を急襲し、その命を奪う。 このクーデターが大化の改新だと思っている人も多いようだが、それ自体は「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ぶのが的確だ。
大化の改新とは、この乙巳の変をきっかけに蘇我氏が滅び、公地公民制や、租・庸・調による統一的税制の実施、また氏姓制度による皇族・豪族の支配を否定して、中央集権国家の実現へと向かった改革全体を表す表現である。

 

明日香村5

 

国家改革の潮流は、大化の改新に留まらず、この後明日香村から舞台を関ヶ原や大津に移して、古代史上最大の内戦と呼ばれる壬申の乱へと続いていくが、明日香村には、大化の改新までの軌跡を知る史跡や遺構が数多く残されている。

 

伝飛鳥板蓋宮跡
〒634-0111 奈良県高市郡明日香村岡
現地電話なし。まっぷるコード: 29000330

 

 

 
 
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稲垣朝則
車中泊専門雑誌カーネルの巻頭特集「車中泊で旅する」を連載しており、その取材で年中日本全国を旅している。
既に日本列島を5往復以上…
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