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ルーツが分かると、源平合戦は10倍面白くなる<無料記事>

2012 - 01/24 [Tue] - 08:38

御所 清涼殿

 

元を辿れば、どちらも皇族の血筋
源氏は清和天皇の孫、平家は桓武天皇の子孫が、臣籍降下で姓を受け、野に下って武将となった。臣籍降下(しんせきこうか)とは、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。 
当初は共に公家の警護役を司っていたが、保元元年(1156年)の鳥羽上皇の崩御を機に、後白河天皇と崇徳上皇の皇位をめぐる対立と、藤原一門の権力争いから生じる「保元の乱」に巻き込まれる。この戦で、源義朝と平清盛は後白河天皇側に加担し、崇徳上皇を打ち破った。
7月11日未明、後白河天皇の命を受けた源義朝と平清盛は、崇徳上皇の命を受けて事を起こそうしていた、源義朝の父・為義と弟・為朝と平忠正らの集結場所を急襲し、これを制した。

 

対立のきっかけは、平治の乱
それから3年… 保元の乱で勝利した後白河天皇は、まもなく皇位を二条天皇に譲り、上皇となって院政を始めた。義朝は保元の乱の時に、父・為義、弟・為朝を敵に回して戦い、二人を殺害したにもかかわらず、一緒に戦った平清盛の出世に比べて、冷たく扱われていることに不満を抱き、やがて清盛失墜を謀るようになる。

 

平治元年(1159)12月4日、清盛が熊野参りで京を離れた隙を狙って、義朝は謀反を起こした。まず後白河上皇と二条天皇を幽閉し、側近で清盛派の藤原信西を殺害する。これが平治の乱である。
しかし、その一報を聞いた清盛は急いで京に戻り、天皇と上皇を救い出した後、一気に義朝軍を打ち破る。鎌倉を目指して落ち延びようとした義朝と長男・義平は捕らえられて斬首、13歳の頼朝は伊豆の蛭が小島に流される。この戦を境に、平家は源氏を押さえ大躍進を遂げる。

 

鞍馬寺

 

ここで興味深いのは、最後に檀ノ浦で平家に印籠を渡すことになる源義経の生い立ちだ。父、義朝が刃に倒れたのは義経がまだ1歳の時。母の常磐御前は敵将の平清盛に身を任せるのと引き替えに子供たちの命を永らえ、義経は共に暮らすうちに平清盛を本当の父のように慕ったともいわれる。
しかし常盤御前が清盛の元を離れることになった七歳の時に、義経もまた鞍馬寺に出され、覚日阿闍梨の弟子となる。義経は昼間は東光坊で学業に励み、夜が更けると僧正ガ谷で天狗に兵法と剣術を習った。伝説の八艘飛びは、この時期の鍛錬の賜物だったのだろうか。

 

源平2

 

6年に及ぶ源平合戦、治承・寿永の乱
その後十年もたたないうちに,平家一門の繁栄は「公卿十六人・殿上人三十余人」という公家独占状態に至る。その結果、排除された旧勢力からの反感を受け、後白河法皇の皇子以仁王と源頼政が、治承4年(1180年)に平氏打倒の兵を挙げ、全国的な争乱が始まった。歴史学上の源平の戦いとは、ここから先を指すようだ。

 

この動乱は約五年間の長きに及んだ。頼政の挙兵は平家に敗れ、宇治の平等院で自害、失敗に終わる。また、同じく以仁王の綸旨を得て、源頼朝が嫁の実家である北条一族の力を借りて挙兵する石橋山の戦いでも、平家から派遣された鎮圧軍の前に敗戦。しかし残党狩りの時に、鎮圧軍の梶原景時が頼朝にお目こぼしを計らい、無事安房に脱出する。

 

平家圧倒的有利の戦況が変わったのは富士川の戦いからである。
5万の平維盛軍が源頼朝追討のため、京から鎌倉へ進撃するが、頼朝はこれに応じて関東の反平家20万騎を従えて西進。さらに甲斐の武田軍と合流し、富士川を挟んで対陣した。 
10月19日の夜、甲斐源氏の武田信義が、密かに対岸の平家軍へ奇襲をかけるべく富士川を渡ろうとした時、水鳥がいっせいに飛び立ち、その羽音に驚いた平家軍は、なんと一戦も交えないまま京都へ退散してしまったのである。
またこの戦の途中で頼朝軍に参戦してくるのが、後々の戦いで大活躍する源義経であり、その直後に、清盛はマラリアで命を落としてしまう。まさに主人公の新旧交代、ここでも義経と清盛の運命が交錯する。

 

以降、金沢の「倶利伽羅峠の戦い」、 神戸・福原における「一ノ谷の戦い」、そして香川県にある「屋島の戦い」と、立て続けに源氏軍は平家を打ち破り続け、寿永4年3月24日(1185年4月25日)に、関門海峡の檀ノ浦で、遂にその戦いに終止符を打つ。

 

源頼朝

 

源氏と征夷大将軍

建久3年(1192年)、源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、初の武家政権となる鎌倉幕府が誕生、長きにわたり公家が政を司ってきた平安時代は終焉を迎えた。
なお、北条氏、織田信長は平家、足利氏、徳川家康は源氏の血をそれぞれ引くと言われている。また本来の征夷大将軍とは、「征夷」つまり北海道を制圧する大将のことで、どこかの国の「将軍様」のように、国内全土に権威を振るうことができる役職ではなかったようだ。文献によれば、それは頼朝が京の都にいる天皇からチャチャの入らない鎌倉に居座るための作戦だったとか。源氏の血を引くものにしか征夷大将軍にはなれないというのは、どうやら足利義満が考えだした真っ赤なウソであるらしい(笑)。

 

 
 
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稲垣朝則
車中泊専門雑誌カーネルの巻頭特集「車中泊で旅する」を連載しており、その取材で年中日本全国を旅している。
既に日本列島を5往復以上…
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